はじめまして。
「40代からのフリーランスLIFE」の管理人シモと申します!
5回の転職を経験したのちに、40代後半でフリーランスのWebライターになりました。
私の簡単なプロフィールです。
・年齢:52歳・男(1児の父で主夫)
・出身地:東京
・職業:フリーのWebライター(アルバイト曆2年・フリーランス曆4年のトータル6年のライター経験)
・ライターとしての得意分野:取材(グルメ・美術・ホテル・百貨店等)、インタビュー、映画、DX
・資格:マイクロソフトオフィススペシャリスト検定合格
・趣味:フットサル(12年)、ムエタイ(『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』笑ってはいけないシリーズの、あの人のジムに所属)、映画鑑賞
Webライターとしてのこれまでの執筆実績
私がこれまでWebライターとして執筆した記事の一部を紹介させていただきます。
【記名記事】
(Webメディア「BIZHINT」様)
(Webメディア「Sfumart」様)
- 貴重な龍に出会える1ヵ月。1年のはじまりは「ハッピー龍イヤー!」【静嘉堂@丸の内】
(Webメディア「BeeBody」様) - 目が疲れる原因は?疲れ目・眼精疲労の対策&セルフチェック
【その他の執筆記事】
- 地域の情報サイトでの、美術館・ホテル・飲食店の取材記事
- モノ系メディアでの家電・健康器具等の紹介記事
- 新作映画の紹介記事
- フリーアドレスシステムのブログ記事作成および事例取材
- 高校英語教育ウェビナーの文字起こしと記事化
- 職業紹介記事
- プレスリリースのリライト記事
- 中小企業経営者インタビューの音声データ記事化
- 食品専門誌のリリース記事
- DXシステム紹介記事
- DXコラム記事
ブログ「40代からのフリーランスLIFE」を運営する理由
「40代からのフリーランスLIFE」は、会社員として働くことに限界を感じている40代男性に、「サラリーマン以外の生き方もあるよ」。と、提案するブログです。
このブログでは、「フリーランスになる方法」「フリーランスとして活躍できる仕事の種類」「フリーランスに必要な保険やキャリアコーチング」「フリーランスのほか、起業家や会社経営者として活躍する人のインタビュー」などを発信していきます。
また、「私の本業であるWebライターの取材やインタビュー」などの情報も発信する予定です。
フリーランスとして自分の本当に実現したい働き方を見つけ、これからの人生を充実させる方法を読者の皆さんとともに、探っていきたいと思います。
次に、私の歩んできた道をストーリー形式で紹介します。
生い立ち(誕生から高校生までの私)
【誕生~12歳】人見知りの少年時代
私は1972年に東京で生まれ、ごく平凡なサラリーマン家庭で育ちました。
両親いわく、「恥ずかしがり屋で、内にこもる性格だった」。とのこと。
当時は、性格が真逆の明るくて社交的な4歳年上の兄によく憧れていたものです。
本を読んだり、一人で怪獣ごっこをしたりするのが好きな子供だったと記憶しています。
ちなみに当時よく読んでいた本は、『ファーブル昆虫記』や『シートン動物記』などの生き物の本です。
【13歳~15歳】サッカー部に入るも挫折、のち目立ちたがり屋
中学校入学。
恥ずかしがり屋の少年は、前向きな性格になろうと、当時流行っていたサッカー漫画の影響でサッカー部に入ります。
しかし、体力のなさと怖い先輩の影におびえ、部活は長続きせず……。
「明日から、五分刈りにして来い!」の先輩の言葉をきっかけに、1か月で退部することになりました。
部活生活に早々に見切りをつけた私は、友だちの家で漫画を読んだり、テレビゲームをしたりしてインドアな生活にシフトしていきます。
そんな地味な中学校生活でしたが、中学2年の授業中に私の発した「あるつぶやき」がきっかけで変わることになるのです。
「腹減ったー」
私の言葉に反応して、クラス中のみんなの笑い声が教室中に響き渡ります。
この感覚に快感を覚えた私は、授業中にくだらないことを言ったり、学芸会の演劇の前座に自分で作ったコントを披露したりして、人前で目立つことが苦にならない前向きな性格に変化していったのです。
学芸会のコントでは自分で台本を作りましたが、今思えばこの経験が現在のWebライター業につながっているのかもしれません。
【15歳~18歳】バブルの空気に引っ張られた高校時代。長い浪人生活へ
中学時代に勉強が苦手だった私は、簡単に入れそうな高校を選択して受験することにしました。
その結果、進学にほとんど力を入れていない、ややレベルの劣る高校へ入学します。
クラスの友だちは、勉強より遊ぶことが好きな人たちばかり。
放課後には、仲間たちとよく繁華街に繰り出した記憶があります。
当時はバブル景気の真っ只中で、高級ブランドを身にまとった社会人や大学生が楽しそうに会話しているのが刺激的でした。
「大学生になったら、こんな風になりたい!」
しかし、そんな気持ちは見事に打ち砕かれます。
勉強もせずに遊びほうけた高校生に入れる大学はなく、長い長い浪人生活に突入します。
バブル当時の世間の雰囲気は「なんとかなるでしょ!」でしたが、私にはなんともならなかったのです。
【19~21歳】3年の浪人を経て、やっとのことで大学生に
私にとって大学受験は、高い壁でした。
人生初の挫折経験といってもいいでしょう。
早々にあきらめるつもりでいたものの、両親の「大学だけは出てほしい」。との言葉に奮起し、頑張ることにしました。
その結果、時間はかかりましたが、合格をつかみ取ったのです。
3年の浪人生活の結果は、以下の通り。
- 1浪目 3校受けて不合格
- 2浪目 5校受けて1校補欠合格(欠員が出ず不合格)
- 3浪目 7校受けて5校合格
【22~24歳】地味な大学生活を経て就職
晴れて大学進学を決めた私が選択したのは、自宅から20分ほどの学校でした。
近さに魅力を感じて選んだものの、学校は仏教系。
あこがれのオシャレな大学生活とはほど遠い、地味な環境でした。
そんな生活に嫌気がさした私は、大学生活のほとんどの時間を映画や小説の世界にのめり込んで費やしました。
気付けばいつの間にか大学4年生……。
就職活動のシーズンです。
すでにバブル経済は崩壊し、売り手市場から買い手市場に。
つまり、なかなか就職できない状況になっていたのです。
しかし、大学受験にたびたび失敗した身としては、もう浪人はできません。
「ある程度名の知れた会社なら、安定しているだろう」
このような安易な気持ちで中堅ヘアケア会社の面接を受けたところ、事務職として内定をもらいます。
(本当は、文章を書く仕事をしたかったにも関わらず……。)
サラリーマン時代(25歳から40代前半の私)
【25歳】新卒で入った会社を1週間で退職
ヘアケア会社の事務職として採用された、25歳の私。
はじめに待っていたのは、美容室の実務研修でした。
お客様に見立てた社員を相手に、袖なしのクロス(布)をかけたり、髪を整えたり。
周りは、美容師の専門学校で技術を習得した人たちばかりです。
みんな慣れた様子で作業をこなしていきますが、私だけうまくいきません。
そのような訓練を受けてきたわけではないので、当然です。
どんくさい動きの私に、教育係のベテラン社員はさっそく目を付けてきました。
「君は誰よりも覚えが悪いから、毎日ほかの社員より1時間早く出社して練習しなさい!」
言われるがままに、出社を早めて研修前に訓練しますが、うまくいかず……。
「こんなのは希望した職ではない」
早々に会社に見切りを付けた私は、わずか1週間で退職します。
【25~27歳】2年のフリーター生活を経て転職するも、1年足らずで退職
新卒で入った会社を早くも辞めてしまった私は、約2年間のフリーター生活を経験します。
「テレアポ」「古本屋の販売員」「図書館の軽作業」など、仕事はさまざま。
そんなフリーター生活を続けていた休日、たまたま立ち寄った書店である雑誌を発見します。
広告・マーケティング・クリエイティブ総合誌『宣伝会議』です。
この雑誌のなかで、気になる職業が目に入ってきました。
コピーライターです。
「なにやら言葉で商品の魅力を伝える仕事らしい。学生時代に詩やコントの台本を書いた経験を生かせるな。これは面白い。転機かもしれない!」
根拠のない希望を抱いた私は、広告代理店の採用試験を受けまくることに決めました。
何社かの試験を経て受かった会社は、学校関係のパンフレットやリーフレットを扱う広告代理店です。
面接によると、コピーライティングの仕事もできるとのことで、企画・営業職として仕事に就くことにしました。
しかし、私の期待していたコピーライターの仕事はその会社にはなく、待っていたのは土日もろくに休めない現実でした。
1年足らずで会社を退職し、フリーター生活に逆戻りです。
【27~30歳】再びのフリーター生活と2度目の転職
27歳の秋。
フリーター生活に逆戻りした私は、広告会社の営業補助や書店の一般事務などをこなしながら、約3年間のフリーター生活に突入します。
「一般公募の有名広告賞やCMコンテストなどで何らかの賞をもらえれば、道が開けるかもしれない」
そんなほのかな希望を抱きつつ、ひそかにコピーライターになる努力を続けました。
結果、クリエイティブ総合誌・宣伝会議の行う『宣伝会議賞』のキャッチコピー部門の企業賞、地方のFMラジオ局のCMコンテストの銅賞を受賞します。
そんなことで、コピーライターになる権利を手にしたと勘違いした私は、すぐさま広告代理店への転職活動を再開します。
大きな広告代理店から小さな広告代理店まで、コピーライターの仕事を求めて50社ほど応募したでしょうか。
しかし、面接までこぎつけたのは10社ほど。
ことごとく、不採用の通知を受けます。
やはり現実は甘くないと実感しました。
もう少し粘って夢を実現する選択肢もありましたが、フリーター生活も長くなり気付けば30歳の冬。
さすがに同居していた親に迷惑をかけられないだろうとの思いから、2度目の転職を果たします。
【31歳~42歳】2度目の転職。落ち着いたかに思えた11年間
2度目の転職。
就いた仕事は、映画関連のソフトや販促物の出荷作業や受・発注を行う物流事務の仕事です。
癖のある嫌な上司に悩まされつつも、数人の仲間に恵まれて楽しく過ごしていました。
仕事終わりに集まって飲みに行ったり、週末に遊びに行ったりしてストレスを発散しながら。
しかし、その楽しみはひとときのものです。
有無を言わせず部署異動を命じられることも多く、会社への不満や将来の不安を常に抱えていました。
「コピーライターじゃなくても、文章を書く仕事で生計を立てたい」
このような気持ちが、再び心の底からわき起こっていた時期でもあります。
そんななか、社長の交代により、会社の体制が変わります。
アットホームだった職場がギスギスしはじめ、仲間の数人が辞めていったのです。
そして、残った仲間の一人が私の上司になるという展開に。
いままで友人であった同僚が上司になった複雑な気持ちと強い当たりによりメンタル不調になった私は、11年間働いた会社を退職します。
その数ヶ月前に、妻と結婚していたにも関わらず……。
【転職後の42歳】3回目の転職。試用期間で解雇
42歳の春。
私は、妻と結婚して間もないのに会社を辞めてしまった焦りから、すぐに転職活動を始めます。
妻は正社員として働いていましたが、その収入に頼りきるわけにはいきません。
自分の希望する文章を書く仕事で生計を立てる気持ちなど、あとまわしです。
毎日ハローワークに通い、自分に向きそうな仕事を選んでは応募を続ける日々。
運良くすぐに、食品会社の営業事務の仕事に採用されます。
しかし、仕事が向かないと判断され、数ヶ月の試用期間で終了。
妻にこのことを報告したときには、本当に情けない気持ちになりました……。
【43歳~44歳】4回目の転職。営業職に就くも、社会保険未加入の会社に不安を抱え退職
再び職探しが、はじまります。
ハローワークをはじめ、さまざまな求人サイトで検索してみましたが、自分に興味の持てる仕事はありませんでした。
自分に合いそうな仕事を探すうちに目に付いたのは、書店の営業職です。
学生時代に本が好きだったこと、人と話すことが好きだったことから「この仕事なら自分に向いているだろう」と判断し応募したところ、採用されます。
営業の仕事は毎日が刺激的で楽しかったものの、その会社は社会保険に未加入でした。
会社に所属しているのに、国民健康保険や国民年金に加入し続けることに不安を感じた私は、わずか1年半で退職することになってしまいます。
転職活動を続けてどこかの会社に所属しても、同じことの繰り返しだろう。
そんなことも頭をよぎりましたが、子供が生まれた時期でもあり、甘ったれたことは言っていられません。
「夢より現実」
安定した職を探すために、転職活動を再開します。
【45歳】5回目の転職はパワハラが横行している会社で失敗
「安定した職を探すとはいえ、すぐに辞めてしまうような会社に入るのは避けるべきだ」
そう考えた私は、もう一度自分のやりたいことを見直すために、都内の職業センターで開催される半年間の「再就職プログラム」に参加することにしました。
プログラムのなかで、自分に本当に向く仕事は何かを深掘りして導き出した結論は、
「やっぱり文章を書く仕事がしたい!」でした。
しかし、職業センターで紹介される仕事のなかには、文章を書く仕事はなく…。
結果、家族との生活を優先して、何度目かに紹介された通信系の会社に5回目の転職を果たすことになったのです。
「これで本当に妻を安心させてやれる!」
と、胸をなで下ろしたのもつかの間、ある事実を知ります。
正社員ではあるものの、大手通信会社に派遣される派遣社員といった働き方だったのです。
そして、派遣先ではパワハラがまかり通っていました。
会社の上司に相談したものの、「他の派遣先はない。嫌なら辞めてもらうしかない」。と取り合ってくれません。
しばらくの間がんばってみたものの、パワハラは改善されず……。
妻に相談して、次の仕事を決めてから辞めるとの条件で、退職を決意します。
入社が決まった時は、大変喜んでくれた妻を裏切ることになってしまいました。
Webライターへの道のり
【46~48歳】Webライター職に出会い、5社目の会社を退職!
「これ以上転職を繰り返してもしょうがない。もう自分のやりたい分野に突き進むしかない」
改めて原点に立ち返った私は、文章を書く仕事を中心に職を探すことに決めました。
ある日、インターネットで検索し続けていた私の目に、「Webライター募集」の文字が飛び込んできます。
「Webライター?そんな仕事があるのか!」
私は終業後の時間を使い、複数のWeb制作会社の面接を受けまくることにしました。
結果、アルバイトながらWebライターとして採用。
そして、5度目の転職を果たした会社に辞表を提出し、1年ちょっとで退職することになります。
正社員ではないものの自分のやりたいことを見つけた私を、妻もどこか認めてくれているようでした。
アルバイトのWebライターとしては、2社ほど経験。
医療関係やペット関連の記事の執筆、百貨店の催事やホテルなどの取材・執筆業務を行ない、順調にライターとしての経験を積み重ねていきました。
しかし、新型コロナウイルスの影響で、突然の雇い止めにあってしまうのです。
【コロナ雇い止め後】48歳で必要に迫られフリーランスへ
Webライターになったものの、突然の雇い止め。
職探し状態に逆戻りです。
同時に我が子の保育園に、年1回の「保護者の就労証明書」を提出する時期とも重なってしまいました。
そこで、ひとつ問題が。
両親のどちらか一方でも仕事をしていないと、保育園の利用資格がないと見なされ退園させられてしまう問題です。
就労証明書の提出期限は3か月。
私は3か月以内に、新しい職を探す必要に迫られました。
職を得るだけでなく、働く時間も大切です。
月に120時間以上働いていないと、保育園に短い時間しか預けられません。
「仕事がない状態で、妻の代わりに家で子供を見ることは不可能だ」
私は、120時間以上働けるフルタイムの仕事を探さなければいけないことになりました。
Webライターのほか、「運送会社の事務職」「野菜の仕分け」「お墓の掃除」「住宅の営業」など、さまざまなフルタイムの仕事を探しました。
しかし、決まったのは業務委託のライター業務2件だけで、フルタイムの仕事は決まらずです。
そんなこんなで、就労証明書の提出期限のタイムリミットの3か月を迎えていました。
「これから新しい職を探しても、見つからない可能性が高い……」
追い詰められた私が考えたのは、「フリーランスのWebライターとして独立すること」でした。
急いで近所の税務署に向かい、個人事業主の登録。
48歳、フリーランス人生のはじまりです。
フリーランスのWebライター生活
【48歳Webライター1年目】月収1~2万円しか稼げない現実
勢いでフリーランスのWebライターになったものの、1年近くはほとんど稼げませんでした。
クライアントを増やすために応募したものの実績がなく、割のいい案件を獲得できなかったからです。
案件は家電などを紹介する1文字1円の執筆案件と、エンタメ系の1記事1,500円の執筆案件の2件のみ。
独立してからの月収は、1万円から2万円を行ったり来たりといった具合です。
とても生活できないレベルの金額で、貯金を切り崩してやりくりするしかありませんでした。
「ほかの仕事を探そう……」
私は、早々にライター業をあきらめる岐路に立たされていました。
【49歳・Webライター1年目後半】稼げない先に光が。月収20万円に
ライター業をあきらめる前に、私の心の中である闘争心がわき起こってきました。
「会社員の生活は自分には合ってなかったんじゃないのか?ライター業をあきらめる前に、もう少し踏ん張ってみよう!」
まずできることは、既存のクライアントに相談すること。
さっそく連絡して、執筆記事数を増やしてもらえないか交渉しました。
すると、今まで2、3記事しか書かせてもらえなかった記事数を10記事近くに増やしてもらえることに。
数ヶ月後、その前向きな姿勢を買ってもらえたのか、時給制の校閲作業を任せてもらえるようになったのです。
月収は一気に2万円から20万円ほどに上がり、収入が安定するようになりました。
同時に、知り合いに紹介されたビジネス系のライティング案件も紹介され、月収が30万円ほどになった月もあります。
「これでライターとしてやっていける!」
そんなことを思った瞬間でもありました。
フリーのWebライター1年目後半の9月から、2年目の8月くらいまでの出来事です。
【49歳・Webライター2年目後半】クライアントが1社だけに。月収1,500円にダウン
収入が安定してきたWebライター2年目の9月。
雲行きが怪しくなる出来事がありました。
時給制の校閲案件と、知人に紹介されたビジネス系のライティング案件の受注が相次いでストップしてしまったのです。
他のクライアント獲得を目指すべく活動はしたものの、受注できず……。
精神的な落ち込みもあったのか、この月に執筆したのは継続案件のエンタメ系記事1記事のみ。
月収は1,500円でした。
【49歳webライター2年目後半~現在】再び踏ん張り、3か月後に月収22万円まで回復
再びWebライター廃業の危機に立たされた私は、案件に応募しまくります。
求人サイト、アルバイト情報サイト、X(旧Twitter)等々……。
応募し続けた結果、3件のクライアント案件を獲得。
収入も11万円、13万円、15万円と少しずつ上がっていき、4か月後には月収が22万円ほどに回復するまでになりました。
収入の微増はあるものの、現在でも20万円ほどの収入を継続して得ています。
最近は、インタビュー案件や取材案件の受注もいただくようになり、ライターとして専門特化するために進化の途中です。
冒頭にも触れましたが、このブログ「40代からのフリーランスLIFE」は、転職を繰り返してフリーランスになった私の経験にもとづき、「フリーランスになる方法」「フリーランスで活躍する人のインタビュー」「フリーランスに必要な保険やキャリアコーチング」などの情報を発信していきます。
このブログを見ることで、会社員であり続けることに不安や不満を感じている方が、
「フリーランスとして、なんとかやっていけそうだな」
と勇気をもってもらえるメディアになれば幸いです。
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